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皆さんこんにちは!
本日は朝から勉強会に参加して頭がスッキリ状態から勤務できている人事部・高橋です。

さて、タイトルですが・・『無私の精神』!
おそらく皆さんも知らないかと思うので、
本日は上司に紹介してもらった、この無私の精神について執筆していきます。

#無私の精神とは

「無私の精神」とは、
1960年に文芸評論家である小林秀雄さんが「読売新聞」に発表したエッセイなのです。
無私の精神は良い、というのは皆さんも感覚で分かるのではないでしょうか?
たとえば仏教でも“無我”を言うし、
カントも道徳性の原理の中で「君の格律が普遍的な立法の原理になるように行為しなさい」とエゴイズムに基づく行為が望ましくないことを述べています。
つまり、単純に、我が強すぎるのは良くないということです。

しかし実際には筆者含め多くの人々は、
人に何かを指摘された時、なんだかんだと、自分に都合のいいように弁解しているのではないでしょうか?
無私が良いことはわかっていても、これほど実践しがたい道徳もなかなかありません。

今回、「無私の精神」を読んで、ある2つのフレーズで答えることが実践的な方法だなと実感させられました・・
まずは「無私の精神」から抜粋したものを下記に載せますので読んでみてください!

私の知人で、もう故人となったが、有能な実業家があった。
非常に無口な人で、進んで意見を述べるというような事はほとんどない、議論を好まない、典型的な実行家であった。
この無口な人に口癖が二つあった。
一つは「御尤も(ごもっとも)」という言葉、一つは「御覧の通り」という言葉である。
だれかが主張する意見には決して反対せず、みんな聞き終ると「御尤も」と言った。
自分の事になると、弁解を決してしない、「御覧の通り」と言った。
この口癖には、何んとも口では言えぬ感じがあり、また、或る言いようのない魅力があった。
私は、彼の仕事の実際については、知るところが殆どなかったが、彼と一緒に仕事をしていた人達の間には、彼の口癖は無論よく知られていたらしく、彼の仲間の一人が、あの人の「御尤も」と「御覧の通り」には、手も足も出ない、と私に語った事がある。
彼には、人を説得するのに、「御尤も」と「御覧の通り」のふた言あれば足りたわけになる。
私は、よく彼の事を思い出しては感ずるのだが、一と口に実行家と言っても、いろいろある。
しかし、彼の場合の様に、傍から見ていても、それとはっきり感じられるのだが、並み外れた意識家でありながら、果敢な実行家でもある様な人、実行するとは意識を殺す事である事を、はっきり知った実行家、そういう人は、まことに稀れだし、一番魅力ある実行家と思える。
考える事が不得手で、従ってきらいで、止むを得ず実行家になっている種類の人が一番多いのだが、また、そういう実行家が、如何にも実行家らしい実行家の風をしてみせるものだ。
この種の退屈な人間ほど、理窟など何の役にも立たぬ、といつも言いたがる。
偶然と幸運による成果について大言壮語したがる。
一般に、意識家は実行家ではないという俗見の力は、非常に根強いものだと思う。
あれもこれも、心に留めて置きたい、ある場合も逆の場合も、すべての条件を考えたい、だが、実行するには、たった一つの事を選んで取り上げねばならない。
そういう悩みで精神が緊張していないような実行家には、興味が持てない。子供の無邪気とは、自ら異るからである。

実業家として成功する人は、自己を押し通す人、強く自己を主張する人と見られ勝ちだが、実は、反対に、彼には一種の無私がある。
空想は孤独でも出来るが、実行は社会的なものである。
有能な実行家は、いつも自己主張より物の動きの方を尊重しているものだ。
現実の新しい動きが看破されれば、直ちに古い解釈や知識を捨てる用意のある人だ。
物の動きに順じて自己を日に新たにするとは一種の無私である。
批評の客観性というものも、この種の無私から発するものである。
批評家の知恵は、科学者のものより、はるかに実行家の、或は生活人の知恵に近い。
理論の厳密より、行動の微妙を指す。

われわれは、だれかが主張する意見には決して反対せず、みんな聞き終ると「御尤も(ごもっとも)」と言い、自分の事になると、弁解を決してせず、「御覧の通り」と言うことができるだろうか。
だれかが主張する意見は、たとえ当人の私利私欲、偏見や誤解を含んでいる可能性があるにせよ、ひとつの現実に出てきた見解なのだ。
無私の世界にいるのならば、まずはよく聞き「ごもっとも」と素直に受け止めるのが正しい。
そして、自分の行動を評論された時も、自分が意識したようには他人は見ているわけではないから、「御覧の通り」と言って、他人の見方と自意識の偏見の差を確認した方が有効である。
反論には自己都合が含まれるので、現実の判断を誤る可能性が高くなる。
反論に無駄なエネルギーを使うよりも、様々に言われたことをよくよく意識し、考慮した上で判断する。
そして実行する時は自意識の空想(=理想)を殺す。
すなわち自己主張や弁解で作りたいあげたい空想よりも、客観的な物の動きの方が現実だと受け止める方が、正しい判断と行動ができる。

今のあなた、今の私

読んでみて、皆さんいかがでしたか?
果たして、皆さんは無私の精神で常日頃過ごすことは出来ていますか??

筆者は、無私、つまりは無我が良いことは理屈ではわかっているつもりですが・・
実際は自己主張と「だって」「でも」と弁解する日々を送っているのかなと感じさせられました。

人の意見には「ごもっとも」、自分への評価には「御覧の通り」と心の中で確認することから、
筆者も始めたいと思います。

勿論、主体性を持って物事に取り組むことは大事な事ではありますが時により紙一重です。
是非、皆さんも今日のブログを読んでみて、

「無私の精神からは程遠いな・・」

こんな風に感じたら、是非、「ごもっとも」「御覧の通り」という2つのフレーズを使って一呼吸置いてみることを実践してみてください。

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